〈嘉義市與藝術〉:陳澄波對嘉義的藝術觀看

說明:〈嘉義市與藝術〉一文為藝術家陳澄波(1895~1947)於1935年發表於《嘉義市制五周年記念誌》一書內之文章。原文為日文發表,本文係以ChatGPT將日文翻譯為繁體中文,校稿後發表於ChiayiWiki網站,並附上日文原文,提供給有興趣的讀者們研究參考。讀者對AI所翻譯內容若發現有需修正之處,再請各位先進不吝指正,以共同提升本文翻譯品質。


作者:陳澄波

我奉本市當局之命,撰寫有關「嘉義市與藝術」的文章。面對這樣的主題,自然需要探究該以何種觀點與態度、或依據什麼樣的順序來書寫,才能忠實描寫主題。然而,我不願為這些框架過於拘泥,寧願順著筆勢,自由地抒發己見。

說到萬事萬物皆有因果,就如山麓與河川流域之間必有某種聯繫一般,我們的嘉義正位於西海岸嘉南大平原與新高阿里山山脈的交會處,是交通上的重要樞紐。

清代時,嘉義又稱「諸羅山」,是一個充滿藝術氣息的名稱。從地名來看,其語意與語源中潛藏著藝術性的心理意涵。即使不論此點,藝術的概念本身即具有既存的價值。向東望去,中央山脈綿延南北,雲霧繚繞,新高主峰每日清晨如同與朝陽一同綻放笑容。那是令人讚嘆的秀麗山峰,我們市民能每日望見此景,是莫大的幸福。如此受大自然美景恩澤之地,自然會孕育出一些深具文化意涵的事物。回顧百年前的道光年間或咸豐年間,便有一位繪畫名人名為林覺。

同一時期亦有蔡凌霄,因擅書法而聲名遠播至中國內地。近些年來,也有葉王這位著名的雕刻家,其作品至今仍受珍視。這些人皆為嘉義所孕育之藝術家,可謂本地藝術的開山祖師。

本質而言,藝術是一種社會現象。

正如諺語所說「必要為發明之母」,人類的勤勞乃出於需求。自古以來,人們為了防禦風雨與猛獸,創造出器具、刀劍與衣物。這些並非藝術創作的自由選擇,而是為了生存而勞動的結果。

藝術創作與一般為了生活的直接功利性行動不同。設想一座宮殿與一幅畫作:宮殿、寺廟雖為巨大建築,即使無裝飾,也能提供安全的庇護;但繪畫則不然,須額外具備藝術元素。實用的部分在繪畫與雕刻中被隱去,藝術性得以獨立呈現。這些藝術成分有時作為附屬,有時則完全獨立存在,是人類行為的產物,但不為直接需求服務,而是出自自由與無目的的活動,激發撫慰、愉悅、好奇、恐懼等各種情感。基於此,藝術不分階級,具備娛樂與慰藉雙重性質。繪畫通常被用作倫理教化的輔助、政教的工具,或作為建築裝飾。雖未脫離功利框架,但審美風尚的興起,則是將「為美而美」的藝術觀發揚起來。尤其是在六朝時代,便可視為中國繪畫史上自由藝術的萌芽。

讓我們回顧當前的臺灣美術界。近年來,當局大力推廣與獎勵藝術,我想這正因藝術本質上是一種社會現象,具有觸動人心的力量。即使是最原始的社會,也未曾完全否定藝術的存在。藝術,是陶冶人心的最佳方式。

觀察一地一國是否盛行藝術,及其受推崇程度,便能推知其文化水準。

正如前文所述,林覺、蔡凌霄、葉王等人的出現,證明當時嘉義的文化程度頗高。這些人一方面受自然美景啟發,一方面亦因社會需求而實現藝術創作的成果。那麼如今的嘉義市又如何呢?與其他地區相比,本地藝術家人數並不算少,且在質的方面亦佔優勢,這是值得慶幸的事。

在東洋畫界中,以林玉山先生為代表,人才輩出;而西洋畫則幾乎只有我一人。這些藝術家不僅代表嘉義,更是臺灣中堅力量。他們活躍於東京、朝鮮、中華民國各地,為臺灣青年與嘉義市民爭光吐氣,令人欣慰。在國內外如此旺盛的創作精神,實應受到高度讚賞。另有雕刻家蒲添生氏,目前於朝倉塾專心鑽研。

文人方面,有擅長蘭花的徐杰夫氏,工藝雕刻品的林英富氏。書法方面,楷書的名家為羅峻明氏,無人能出其右;行書與楷書的代表則為已故莊伯容氏;草書則以蘇孝德氏為獨步。攝影方面的佼佼者有岡山氏、津本氏、陳謙臣氏等人。唯一令人遺憾的是,尚缺乏專業的美術建築裝飾家。上述僅是我記憶中的部分人士,嘉義或許還隱藏著更多詩人與藝人,本文僅略述至此。總而言之,這些藝術家在各自領域精進努力,實令人感佩。

觀察目前市內的狀況,與二十年前相比,有明顯進步。舊式家屋幾乎消失,取而代之的是符合現代需求的新建築。不過,從藝術家的角度來看,審美、古典的建物日漸消逝,實令人惋惜。然而建築師則可能會以此為時代進步的象徵。早期建物多用土、石、臺灣磚與木竹為材,自從阿里山森林開發後,多轉而使用木材。直到近年來,建築才逐漸視裝飾為必要元素。

目前值得稱許的建築物有市役所、稅務出張所、嘉義驛、羅山信用組合、原柯眼科醫院等,皆以美學觀點設計建造,象徵著所謂的「裝飾煉瓦時代」的到來。從這一點看,繪畫可說是建築界的重要助力,美術家無須為建築改造而憂慮。市區道路亦已拓寬,衛生與美觀兼具,這固然是時代所趨,也是本市藝術界進步的成果與市民福祉的象徵。

建設如此具藝術性的嘉義市,首功應歸前任市長廣谷氏,而能夠付諸實現,則應感謝現任市長川添氏。尤其去年秋天臺展移動展首先在嘉義市舉辦,正是市長及在地各方熱誠與努力的成果。也因此,身為藝術家根據地的嘉義市,已無愧於世人矣。

綜上所述,不僅我們藝術家,全體市民亦應感到光榮與幸福。在結語之際,縱使我們力量微薄,仍願為將嘉義市藝術化而努力。希望市民們也能與我們一同愛護藝術、欣賞藝術,使我們偉大的嘉義市邁向藝術之都的未來,我願為此永懷希望,不懈奮鬥。


(日文版本一 :1935年印刷紙本掃描辨識)

嘉義市こ藝術

陳澄波

我が市當局より「嘉義市と藝術」に就いて書けと命ぜられた。此の主題に付て如何なる考へと態度を以て、又は如何なる順序を以て書けば主題通りに描寫し得るかを考究する必要がある。然し乍ら斯かる拘束を餘りに深く考へずに筆の走る儘に一つ述べさしていただ きいと考へます。

さて物事には何かの原因があつて必ず何かの結果が得られると同様に、山麓又は河川の流域には必ず何かの結合がある如く、我が嘉義は西海岸の嘉南大平野と新高阿里山地帯と の結合點に當り交通上の要地である。

清朝時代は諸羅山といつて藝術味たっぷり の名前であつて、地方の名稱から見てもその語意語源に藝術的心理の潜みがある。それで無くとも藝術 的概念は既有性を持つのであつた。東方には 雲に聳ゆる中央山脈が南北に連り、新高の主山は毎朝定つた様にお日様と共に笑顔を見せてくれる。實に麗しい秀峯であつて、毎日眺 められる我々市民は何程仕合せであるか知れぬ。斯かる大自然の美、天然の景に恵まれてゐる地方こそ、何かいはれがありそうなもの、今を遡ること凡そ百年道光年間か或は成豊年間か繪畫の名人林覺と云ふ人がゐた。

是と時と同じうして書を以て支那内地に迄名 の聞えてゐた蔡凌霄もゐたと云ふ。近くは五十餘年前葉王と云ふ名代の彫刻家もゐて今にその作品が珍重されてゐる。いづれも嘉義が 生んだ藝術家で此の道の元祖である。

抑々藝術と云ふ物は一つの社會的現象である。

「必要は發明の母」といふ諺の如く、人間の勤も必要の結果である、人類あって以来雨雪と猛獸の襲撃を防ぐ爲に人は器具、刀、槍並に衣服を作った。彼等は自由の撰擇に依つて藝術家になる前に、必要に迫られて勤勞したのである。

藝術的製作は其の著しき特色に於て他の直 接利用厚生的活動と異つてゐる。先づ茲に一の宮殿、寺院があり。一の繪畫があると假定すると、寺院、宮殿の方は只大きな家でありさすれば何の飾がなくとも安全な庇護の場所となり得るが、繪畫の方はさうは行かない。繪畫に於ては外に藝術の要素が附加されねばならぬ。實用の要素は繪畫や彫刻には隠蔽されて藝術的要素のみが分離獨立するのであ時には補助と成り、時には獨立する此の藝術的要素は、夫自身人類活動の一産物である。只夫は直接の必要を充たすを目的としない。特に自由な、無算心の活動であつて、愛撫、愉悅、好奇、恐怖の念等の一種の活情緒を惹起する活動である。弦に於てか、藝術は其の階級を問はず一の賛澤、一の慰みものたる二元的性質を帯びる。即ち繪畫を以て、大抵人倫の補助、政教の方便となし、又は建築物の装飾として用ひられ、未だ覊絆の區域を脱してないが、美を美として楽しむ審美的風尚が起つて来る事になる。殊に六朝時代はさうで、支那繪講史上に於ける自由藝 術の萌芽と見ることが出来よう。

現在の我が臺灣繪壇を考へて見たい。最近 當局に於てば大に藝術を獎勵し、賞讃せられる所以も此の間にあると思ふ。その目的が他人の感情を刺するてふ點に於て藝術は根本的には一つの社會的現象である。如何に原 始的社會でも全然藝術を蔑視したものはない。所謂人心陶治をするに適切な手法である。その地、その国に於て藝術の考究が盛に行は れてゐるや否や又はその賞賛の程度はどうであるかを見れば、その地方、その國家の文化程度を知る事が出来るのである。

前述の如く、林覺、蔡凌霄、葉王の輩出は 既にその時代の文化程度を知るわけになると 思ふ。一方には天然の恵澤を受け、一方では社會の慾求に依つて彼等の達成を見たわけに なると思ふ。然らば現今我が市はどうであらう。他地方に比し美術家の輩出は少くはない。しかも質に於てもその優を占めてゐることは何よりも嬉しい。

東洋盡に於ては林玉山氏を鎮守とし、獨占的の様に多数輩出して居るが西洋書では自分だけである。是等は嘉義を代表するばかりでなく島内の中堅である、進んでは東都に於て、朝鮮、中華民國の各地に於ても彼等は臺灣青年の爲め、嘉義市民の爲めに萬丈の氣煙を吐いて呉れつあるのは何より嬉しい。對内、野外斯くの如き元氣旺盛振りは賞すべきである。其他彫刻の蒲生氏は目下朝倉塾に 於て熱心に研究されてゐる。

文人盡としては蘭の名人徐杰夫氏、工藝彫刻品のトン智著としては林英富氏、書としては、その楷書の名将として羅明氏の右に出づるものはない、行書楷書は矢張り故莊伯容 氏の領分で、草書の獨占名將は蘇孝德氏に限る。寫眞師の猛将は岡山氏、津本氏、陳謙臣氏の諸氏である。惜しい事には美術装飾建築 家がゐないのが残念であった。以上畧記憶してゐる範圍をつまんだわけである。此の隠れ詩人藝人が居ると思ふが此の位で止めやう、要するに只今舉けた人達は現在市にてそれぐ各藝に精進されてゐるのは何より嬉しい事だ。

現在市内の狀況を拝察するに二十年前に比べて長足の進歩の跡が見える。舊来の家屋は殆んど無くなって市に相應しい新建築物が立ち並んだのであるが吾々美術家の要地から云ふと、何とも言へぬ審美的な、古典的な、建物が日に滅びて行くのはなけかばしいことである。しかし、建築家に言はせると時代の進歩を誇るであらう。建物の古きは土角、臺煉瓦、それに木、竹材を以てしたのである阿里山大森林が開拓されてから殆んど木材を使ふやうになり、最近に至つて漸く装飾が必要要素と看做されたのである。

建築物として賞讃すべきは市役所、税務出張所、嘉義驛、羅山信用組合、元の柯眼科醫院等で、何れも美的見地に出發して建てられたもので、これから所謂装飾煉瓦時代に送るのであらう。此の點から見れば繪畫は大いに 建築界の大補助役をつとめてゐるのであつて、建物の改造に對して美術家が之を憂ふ必要はない。市内道路も廣くなつた。衛生的に、美術的に改装された事は時代の要求であらう が一面我が藝術界進歩の賜であると共に市民 の幸福でもある。

斯かる藝術的嘉義市建設の第一恩人は前廣谷市尹であるがそれが完成は現川添市尹の努忘れてはならない。殊に昨秋臺展移動展他市に先んじて我が市に開いた事は市尹を始め、各在嘉の方々の熱誠と努力の結果に依るものと思ふ。之に依つて美術家の根源地である我が嘉義市は一般に對し恥ぢる所はない様になったわけである。

以上の諸條件から見ても吾々藝術家のみならず、市の人々の仕合である。終りに臨んでは吾々は微力乍ら我が市を藝術化したい。それには市民の方々は我々と共に藝術を愛顧よう、鑑賞しようと念願せられ、我が大嘉義市をして藝術の都として行きたいと希望して止まない次第です。

(原文出處:陳澄波,〈嘉義市與藝術〉,《嘉義市制五周年記念誌》,1935,頁92~93,嘉義市役所出版)


(日文版本二:感謝日本Takashi Sato先生協助調整修改)

嘉義市と藝術

陳澄波

我が市當局より「嘉義市と藝術」に就いて書けと命ぜられた。此の主題に付て如何なる考へと態度を以て、又は如何なる順序を以て書けば主題通りに描寫し得るかを考究する必要がある。然し乍ら斯かる拘束を餘りに深く考へずに筆の走る儘に一つ述べさしていただき度いと考へます。

さて物事には何かの原因があつて必ず何かの結果が得られると同様に、山麓又は河川の流域には必ず何かの結合がある如く、我が嘉義は西海岸の嘉南大平野と新高阿里山地帯との結合點に當り交通上の要地である。

清朝時代は諸羅山といつて藝術味たつぷりの名前であつて、地方の名稱から見てもその語意語源に藝術的心理の潜みがある。否それで無くとも藝術的概念は旣有性を持つのであつた。東方には雲に聳ゆる中央山脈が南北に連り、新高の主山は毎朝定つた様にお日様と共に笑顔を見せてくれる。實に麗しい秀峯であつて、毎日眺められる我々市民は何程仕合せであるか知れぬ。斯かる大自然の美、天然の景に恵まれてゐる地方こそ、何かいはれがありそうなもの、今を溯ること凡そ百年道光年間か或は咸豊年間か繪畫の名人林覺と云ふ人がゐた。

是と時と同じうして書を以て支那内地に迄名の聞えてゐた蔡凌霄もゐたと云ふ。近くは五十餘年前葉王と云ふ名代の彫刻家もゐて今にその作品が珍重されてゐる。いづれも嘉義が生んだ藝術家で此の道の元祖である。

抑々藝術と云ふ物は一つの社會的現象である。

「必要は發明の母」といふ諺の如く、人間の勤勞も必要の結果である、人類あつて以来雨雪と猛獸の襲撃を防ぐ爲に人は器具、刀、槍並に衣服を作つた。彼等は自由の撰擇に依つて藝術家になる前に、必要に迫られて勤勞したのである。

藝術的製作は其の著しき特色に於て他の直接利用厚生的活動と異つてゐる。先づ茲に一の宮殿、寺院があり。一の繪畫があると假定すると、寺院、宮殿の方は只大きな家でありさへすれば何の飾がなくとも安全な庇護の場所となり得るが、繪畫の方はさうは行かない。繪畫に於ては外に藝術の要素が附加されねばならぬ。實用の要素は繪畫や彫刻には隠蔽されて藝術的要素のみが分離獨立するのである。時には補助と成り、時には獨立する此の藝術的要素は、夫自身人類活動の一産物である。只夫は直接の必要を充たすを目的としない。特に自由な、無算心の活動であつて、愛撫、愉悅、好奇、恐怖の念等の一種の活潑な情緒を惹起する活動である。茲に於てか、藝術は其の階級を問はず一の贅澤、一の慰みものたる二元的性質を帯びる。即ち繪畫を以て、大抵人倫の補助、政教の方便となし、又は建築物の装飾として用ひられ、未だ覊絆の區域を脱してないが、美を美として楽しむ審美的風尚が起つて来る事になる。殊に六朝時代はさうで、支那繪講史上に於ける自由藝術の萌芽と見ることが出来よう。

現在の我が臺灣繪壇を考へて見たい。最近當局に於てば大に藝術を獎勵し、賞讃せられる所以も此の點にあると思ふ。その目的が他人の感情を刺戟するてふ點に於て藝術は根本的には一つの社會的現象である。如何に原始的社會でも全然藝術を蔑視したものはない。所謂人心陶冶をするに適切な手法である。その地、その国に於て藝術の考究が盛に行はれてゐるや、否や又はその賞賛の程度はどうであるかを見れば、その地方、その國家の文化程度を知る事が出来るのである。

前述の如く、林覺、蔡凌霄、葉王の輩出は旣にその時代の文化程度を知るわけになると思ふ。一方には天然の恵澤を受け、一方では社會の慾求に依つて彼等の達成を見たわけになると思ふ。然らば現今我が市はどうであらう。他地方に比し美術家の輩出は少くはない。しかも質に於てもその優を占めてゐることは何よりも嬉しい。

東洋盡に於ては林玉山氏を鎮守とし、獨占的の様に多数輩出して居るが西洋書では自分だけである。是等は嘉義を代表するばかりでなく島内の中堅である、進んでは東都に於て、朝鮮、中華民國の各地、に於ても彼等は臺灣青年の爲め、嘉義市民の爲めに萬丈の氣煙を吐いて呉れつゝあるのは何より嬉しい。對内、對外、斯くの如き元氣旺盛振りは讃賞すべきである。其他彫刻の蒲添生氏は目下朝倉塾に於て熱心に研究されてゐる。

文人盡としては蘭の名人徐杰夫氏、工藝彫刻品のトン智著としては林英富氏、書としては、その楷書の名將として羅峻明氏の右に出づるものはない、行書楷書は矢張り故莊伯容氏の領分で、草書の獨占名將は蘇孝德氏に限る。寫眞師の猛將は岡山氏、津本氏、陳謙臣氏の諸氏である。惜しい事には美術装飾建築家がゐないのが残念であつた。以上畧記憶してゐる範圍をつまんだわけである。此の隱れた詩人藝人が居ると思ふが此の位で止めやう、要するに只今舉けた人達は現在市にゐてそれ〲各藝に精進されてゐるのは何より嬉しい事だ。

現在市内の狀況を拝察するに二十年前に比べて長足の進歩の跡が見える。舊来の家屋は殆んど無くなつて市に相應しい新建築物が立ち並んだのであるが吾々美術家の要地から云ふと、何とも言へぬ審美的な、古典的な、建物が日に滅びて行くのはなげかはしいことである。しかし、建築家に言はせると時代の進歩を誇るであらう。建物の古きは土角、臺灣煉瓦、それに木、竹材を以てしたのであるが、阿里山大森林が開拓されてから殆んど木材を使ふやうになり、最近に至つて漸く装飾が必要要素と看做されたのである。

建築物として賞讃すべきは市役所、税務出張所、嘉義驛、羅山信用組合、元の柯眼科醫院等で、何れも美的見地に出發して建てられたもので、これから所謂装飾煉瓦時代に遷るのであらう。此の點から見れば繪畫は大いに建築界の大補助役をつとめてゐるのであつて、建物の改造に對して美術家が之を憂ふ必要はない。市内道路も廣くなつた。衛生的に、美術的に改装された事は時代の要求であらうが一面我が藝術界進歩の賜であると共に市民の幸福でもある。

斯かる藝術的嘉義市建設の第一恩人は前廣谷市尹であるがそれが完成は現川添市尹の努力を忘れてはならない。殊に昨秋臺展移動展を他市に先んじて我が市に開いた事は市尹を始め、各在嘉の方々の熱誠と努力の結果に依るものと思ふ。之に依つて美術家の根源地である我が嘉義市は一般に對し恥ぢる所はない様になつたわけである。

以上の諸條件から見ても吾々藝術家のみならず、市の人々の仕合である。終りに臨んでは吾々は微力乍ら我が市を藝術化したい。それには市民の方々は我々と共に藝術を愛顧よう、鑑賞しようと念願せられ、我が大嘉義市をして藝術の都として行きたいと希望して止まない次第です。

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